石室の解体作業が進む高松塚古墳(奈良県明日香村)の石室床面に、被葬者を納めた木棺を安置する「棺台」の痕跡が見つかり、文化庁が10日、発表した。棺台は、聖徳太子墓(大阪府太子町)や中臣鎌足(なかとみのかまたり)の墓とされる阿武山古墳(同高槻市)など、皇族や政権トップクラスの墓に用いられており、高松塚の被葬者の地位の高さを改めて裏付ける発見となった。

 木棺が置かれた石室の床面には築造当時に塗られた漆喰(しっくい)が残っていたが、この漆喰に厚みの違う部分があるほか、石室中央部が縦2・17メートル、横68センチの長方形に黒く変色していたことを調査で確認した。
 黒ずみは昭和47年の調査で見つかった木棺の底板(縦2メートル、横58センチ)より一回り大きいことから、木棺の下に棺台があったと判断。漆喰の厚みの違いは棺台を床面に据え付けてから、周囲を漆喰を塗って仕上げたと推定できるという。棺台は木製のため腐って残らなかったらしいが、東壁に残っていた傷跡から、高さは約17センチとみられる。

 同庁はまた、床面の調査がほぼ終了したことから、床石の搬出作業を20日から行うと発表した。今月中に修復施設に搬入される。



 ■刑部皇子説後押しか

 高松塚古墳をめぐっては、壁画発見から35年がたち、被葬者論争も膠着(こうちゃく)状態となったが、被葬者を1300年間守ってきた石室の解体が再び論争に火をつける形となった。

 昭和47年の壁画発見直後は、壁画の中に被葬者自身が描かれているとも言われたが、被葬者の従者というのがほぼ定説。

 石室内で見つかった人骨の鑑定により、被葬者は40~50歳代の男性と推測される。古墳の築造年代などとも合わせて、天武天皇の子で大宝律令を制定した刑部(おさかべ)皇子(生年不明~705年)が最有力視され、高級官僚で竹取物語では「かぐやひめ」にプロポーズをしたという石上麻呂説もある。

 飛鳥時代の貴族の墓は数十基で、棺台があるのは天皇クラスの墓を含む10基前後。猪熊兼勝・京都橘大学教授(考古学)は「刑部皇子の可能性がさらに高まった。丹念な調査によって高松塚の被葬者にふさわしい新たな資料が加わった」と話した。
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