シリーズ、『語りつぐ戦争』。きょうは、大阪に投下された〝原爆〟の話です。標的になったのは、東住吉区の田辺地区でした。狙われたのは、まさに住宅街。戦災をくぐり抜け、今も地元で暮らす人たちの証言です。


■狙われた住宅街

ちょうど60年前の大阪・東住吉区、アメリカ軍が1発の爆弾を落とし、7人が犠牲となりました。きょう、住宅街にある慰霊碑の前で、追悼の集いが開かれました。

【参列した人は・・・】
「どうぞ、このことを忘れずに、ずっと末代まで語り継いでいってもらいたい」
--------------------------------------------------------------------------------
落とされた爆弾は5トン。長崎の原子爆弾と同じ重さ。そして、同じ形。アメリカ軍が原爆投下の訓練のために落とした、『模擬原爆』でした。
『模擬原爆』は、他にも神戸市などの軍需関連施設に落とされましたが、なぜ住宅街の東住吉区が狙われたのか、詳しいことは分っていません。
--------------------------------------------------------------------------------
朝日放送に戦争の体験談を寄せた石橋義人さんは、爆心地からおよそ1キロのところで、この爆弾が落ちる瞬間を目撃しました。
「黒豆みたいなものが、すうっと落ちた。2秒ぐらいで、ドーンと・・・」

「体にガラスの破片がいっぱい刺さっているわけ。それをみんな抜いているわけですよ、血がどろどろになって。『痛い、痛い』と泣いている人もいれば、もうぐったりしている人も。看護婦さんやみんなで、ガラスを抜いているわけ。それを見たときに、『ひどいなあ』と思ってね・・・」
--------------------------------------------------------------------------------
爆心地から数百メートルのところにいた、宇田恭子さん。60年経っても、耳に残っている音があります。
「爆弾の落ちてきた音が、〝シャー〟という音。砂ぼこりの中で、後ろのガラスが木端微塵。自分家の窓の格子が、向こうの方に飛んでいるわけですからね。けががなかったのが不思議なぐらいでした」
--------------------------------------------------------------------------------
1発の爆弾で全半壊した家は、400以上と言われています。爆心地からわずか数十メートル、海野修さんは下敷きになった家から脱出し、一命を取りとめました。
「爆弾というものは、経験したら分るけど、とにかく苦しい。家の下敷きになって身動きがとれない。上から瓦や柱があって、体がはさまってしまって・・・。人間が死に際にうなっているのを見ていたから、『地獄ってこんなんやったんかな』と」
--------------------------------------------------------------------------------
3人に鮮明な記憶を残した爆弾。ある市民グループの調査でこれが模擬原爆だと分ったのは、戦後半世紀近くが経ってからでした。地元に惨劇を伝える慰霊碑が建てられたのも、ほんの4年前のことです。


【宇田恭子さん】
「もしあれが本当の原爆なら、ものすごい事になって、私らも絶対今はもう生きていなかったと思うわけです。その時に、改めて怖さっていうのを感じました」

【海野修さん】
「原爆を落とすための訓練というのは、後で聞いて無性に腹が立った。人間を実験に使っているわけだし・・・」
--------------------------------------------------------------------------------

地元の人たちは、今、「ヒロシマとナガサキに繋がったこの歴史を忘れまい」と、当時の事を記録し、語り継ぐ運動を進めています。
そして、追悼の集いは今年で5回目を迎え、参列者は平和への思いを新たにしたのです。2度と、あの悲劇を繰り返さないために・・・。
arrow
arrow
    全站熱搜

    akiyasu 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()