いきなりですがクイズをひとつ――聖徳太子、伊藤博文、夏目漱石、野口英世に共通する、あることとは何でしょうか? 正解は「千円札の顔」です。漱石の肖像は1984年から20年間千円札に印刷されました。えっ? 「知らなかった。千円札をじっくりと見たことがないので……」ですって? そういうあなたは幸せです。

 ぼくが高校1年生だったころ、夏休みの記憶はそのとき読んだ『吾輩は猫である』のイメージと入り混じっています。その90年前の1867年(慶応3年)2月9日(旧暦1月5日)、のちの大文豪・夏目漱石は江戸牛込馬場下の名主で、当時54才の夏目小兵衛直克を父に、その後妻、千枝が41才のとき、5男3女の末っ子として生まれました。
 
 実家があったところは現在の東京都新宿区喜久井町1番地。西から夏目坂通りが早稲田通りと交差する角の地です。ここにはいま新宿区指定史跡として黒御影石の記念碑があります。
 この碑(いしぶみ)は生誕100年を記念して1966年(昭和41年)に建てられたもので、弟子の安倍能成(あべよししげ)の筆で「夏目漱石誕生の地」と刻まれています。

 喜久井町の名は井桁に菊の夏目家の家紋から、また、夏目坂は家名から漱石の父小兵衛直克が命名したといわれます。

 碑のすぐ後は牛丼の吉野家早稲田店の入り口で、すぐそばに牛丼420円などと書かれた大きな垂れ幕が下がり、ふくいくたる香りをそえています。

 この光景には明治の大文豪も、さぞかしあの世で苦笑いしているのではないでしょうか。

 漱石が生まれた日はちょうど庚申にあたり、俗にこの日に生まれた子は大泥棒になるといういい伝えがあったそうです。

 父小兵衛直克は庚申の呪いをさけるため、厄除けに「金」の字をいれて金之助と命名しました。

 父・小兵衛直克はこのあたり一帯を管轄する名主で、徳川幕府の行政組織の一端をになっていました。

 名主といえば「泣く子も黙る」ほどの威勢だったが、漱石が生まれた1867年(慶応3年)には時の将軍・徳川慶喜が統治権を天皇に返上を申し出て、江戸幕府が瓦解するというまさに天地がひっくり返る大事件が起こった年でした。
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    akiyasu 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()